Masuk「2087年の秋でした」
ユキコの声が、わずかに震えた。3000年の時を経ても、その記憶は色褪せていない。
「私はまだ23歳で、ケンジと結婚して3年目。不老技術はまだ研究段階で、私たちはごく普通の、死すべき人間でした」
彼女は目を閉じた。記憶の中に潜っていくように。
「その日、私たちは京都にいました。新婚旅行で行きそびれていた場所を、ようやく訪れることができたんです。ケンジの仕事が一段落して、私も大学の研究室から一週間の休みをもらって」
「何の研究をされていたんですか?」
「神経生理学です。記憶のメカニズムについて。皮肉なことに、それが後の不老技術の基礎理論の一つになりました」
ユキコは目を開けた。
「嵐山の竹林を歩いているとき、突然の雨に降られたんです。秋雨でした。冷たくて、でも不快ではない雨。竹林の中に雨の音が響いて、それはそれは美しい音楽のようでした」
アキラは静かに聞いていた。彼の中で、何かが動き始めている。
「ケンジは一本しかない傘を私に差し出しました。『君が持って』と。でも私は断って、二人で一つの傘に入ったんです」
ユキコの口元に、柔らかな微笑みが浮かんだ。
「傘は小さくて、二人で入ると窮屈でした。ケンジは背が高かったから、私が傘を持っても彼の肩が濡れてしまう。それで私は背伸びをして、少しでも彼に傘がかかるようにしたんです。でも、そうすると今度は私の肩が出てしまう」
彼女は小さく笑った。
「ケンジが気づいて、傘を持ってくれました。そして私の肩を抱いて、自分の体に引き寄せた。そうしたら、二人とも濡れずに済んだんです」
部屋に沈黙が降りた。しかしそれは重い沈黙ではなく、何か大切なものを包み込むような、優しい沈黙だった。
「私たちは竹林の中を、ゆっくり歩きました。雨音と、竹の葉が揺れる音と、私たちの足音だけが響いていました。ケンジの体温が伝わってきました。彼の心臓の鼓動が聞こえました。傘の外は雨。でも傘の下は、私たちだけの小さな世界でした」
ユキコは深く息を吸った。
「そうしたら、ケンジが笑って言ったんです」
彼女は目を閉じた。
「『
アキラの胸に、鋭い痛みが走った。理由はわからない。ただ、その言葉が何か大切なものを突いた気がした。
「私は答えました。『温泉旅館がいいわ。熱い湯に浸かって、美味しいものを食べましょう』。ケンジは『いいね、じゃあ予約しようか』と言って、濡れた手でスマートフォンを取り出そうとして」
ユキコは目を開けた。その瞳には、3000年の歳月が宿っていた。
「私はそれを止めたんです。『今じゃなくていいわ』って。ケンジは不思議そうに私を見ました。『でも、人気の宿はすぐ埋まっちゃうよ』。私は首を振りました。『それでもいいの。今は、この雨を見ていたい』」
「どうしてですか?」
アキラは静かに問うた。
「わからなかったんです、その時は」
ユキコは窓の外を見た。
「でも今ならわかる。あの瞬間が、あまりにも美しかったから。雨の音、竹の葉の揺れる音、ケンジの体温、傘の下の小さな世界。そして何より――」
彼女は再びアキラを見た。
「私たちには、まだ未来があったから」
アキラは息を呑んだ。
「雨はいつか止む。その後に行く場所を、私たちは選べた。選択肢があった。可能性があった。限られた時間の中で、どう生きるかを決められた。それが、どれほど贅沢なことか」
ユキコの目に、涙が光った。
「今の私には、もう未来がありません。いえ、正確には、未来は無限にあります。でも、無限の未来は、未来ではないんです。どこにも行き着かない道は、道とは呼べない。永遠に続く物語は、物語ではない」
彼女は立ち上がり、窓に近づいた。
「あの傘の下の5分間が、3000年よりも重かった。なぜなら、あれは二度と戻らないとわかっていたから。ケンジは老い、私も老い、やがて私たちは死ぬとわかっていたから。だからこそ、あの瞬間は永遠だったんです」
それから1000年後。 人類は、ついに不老技術を放棄した。 それは突然の決断ではなかった。数百年かけて、徐々に、社会的コンセンサスが形成されていった。 永遠に生きることの虚しさに、多くの人が気づいたからだ。 終わりのない人生は、始まりも持たない。意味も、価値も、美しさも、すべて有限性の中にこそある。 人間は、再び死すべき存在となった。 平均寿命は150年に設定された。十分に長く、しかし永遠ではない。人生を二度、三度生き直せるほどの長さ。しかし、いつかは終わりが来る。 そして、終焉士という職業も、消えた。 もはや必要なくなったのだ。誰もが、自然に死を受け入れるようになったから。 しかし、記録は残った。 永久保存庫には、数百万の物語が眠っている。永遠を生きた者たちの、有限だった頃の記憶。 その中に、一つの記録がある。「アキラ・サトウの物語」 彼は結局、死を選ばなかった。 1500年生きて、自然に消えていった。不老技術が放棄された後も、彼は記憶を保持し続け、すべての痛みと喜びを抱えて、最後まで生きた。 彼の最後の言葉は、記録に残っている。 それは、彼が最期を迎える数時間前、窓辺で呟いた言葉だった。「雨が止んだら、どこへ行こうか」 その言葉の意味を、当時の人々は誰も理解できなかった。 でも、記録は残った。
それから10年が経った。 アキラは、終焉士を続けていた。記憶を消すことはやめた。すべてを覚えている。痛みも、喜びも、10,247人の死も、アヤの笑顔も。 重い。とてつもなく重い。朝起きるたびに、その重さに押しつぶされそうになる。 でも、生きている。 そして、不思議なことに、その重さが、彼を生かしていた。 記憶の重みが、一瞬一瞬に意味を与える。今日という日は、二度と来ない。だから、大切にしなければならない。 アキラは、10年間で832人の死を見届けた。合計で11,079人。 しかし、数は問題ではなかった。一人一人の物語が、彼の中に生きている。 ある雨の日、新しい訪問者が事務所を訪れた。 若い女性だった。外見年齢は25歳ほど。長い黒髪、大きな目、どこか不安そうな表情。「失礼します」「どうぞ」 アキラは立ち上がり、彼女を迎えた。「お名前は?」「ミサキです。ミサキ・ヤマダ。125歳です」 125歳。若い。とても若い。「終焉士の予約をしたいのですが」「椅子をお選びください。お茶は?」「コーヒーを」 アキラは丁寧にコーヒーを淹れながら、彼女を観察した。 彼女の目には、深い疲労があった。125年という時間は、彼女にとって十分すぎるほど長かったようだ。「おいくつで不老
ユキコが去った後、アキラは長い時間、窓辺に立っていた。 虹は既に消えていた。でも、その余韻が空気の中に残っている気がした。 彼は、ふと思い出した。アヤと一緒に見た虹のことを。 それは結婚して2年目の夏だった。二人で海辺を歩いていたとき、突然の雨に降られた。近くの東屋に逃げ込んで、雨が止むのを待った。 雨が上がったとき、空に大きな虹がかかっていた。 アヤは言った。「ねえ、虹って不思議よね。雨と太陽がないと、生まれない」 アキラは頷いた。「そうだね」「悲しみと喜びが一緒にあるから、美しいのかもしれない」 アヤはそう言って、アキラの手を握った。「私たちの人生も、きっとそうよ。楽しいことばかりじゃない。辛いこともある。でも、両方があるから、美しいんだと思う」 その時、アキラはアヤの言葉の意味を完全には理解していなかった。 でも、今ならわかる。 人生は、喜びと悲しみの両方で成り立っている。どちらか一方だけでは、完全ではない。 永遠に生きることは、その喜びと悲しみのバランスを壊す。すべてが平坦になり、すべてが当たり前になり、すべてが色褪せる。 でも、有限な時間の中では、一瞬一瞬が輝く。 アキラは記録端末を開いた。そして、新しいファイルを作成した。 タイトルは「未来の私へ」。 彼は書き始めた。「未来の私へ これは6回目の手紙です。あなたは、また記憶を消
アキラは答えに詰まった。「わかりません」「正直でよろしい」 ユキコは微笑んだ。「私もそうでした。3000年生きて、もう十分だと思った。でも、本当に終わりたいのかと問われれば、確信が持てない」「では、なぜここへ?」「理由を見つけたかったんです」 ユキコは窓の外を見た。「生きる理由じゃない。死ぬ理由。生きることに疲れた、それだけでは不十分な気がして」「見つかりましたか?」「いいえ」 ユキコは首を振った。「でも、あなたと話して、わかったことがあります」 彼女はアキラを見つめた。「私たちは、答えを求めすぎているんです。なぜ生きるのか、なぜ死ぬのか、人生の意味は何か。でも、そんな問いに答えはない。あるのは、ただ――」「問い続けること」 アキラは呟いた。「そう」 ユキコは頷いた。「アヤさんが言っていたでしょう。人生に意味があるとすれば、それは問い続けたことそのものだって」 アキラは息を呑んだ。 そうだ。アヤの記録の中に、そんな言葉があった。彼は思い出した。 アヤは言っていた。「人生に意味があるとすれば、それは私たちが問い続けたことそのものだと思うんです」と。「答えは出なかった。
アキラは記録装置の前に座った。 しかし、話し始めることができなかった。 500年の人生を、どう語ればいいのか。10,247人の死を見届けた男の物語を、どこから始めればいいのか。 彼は自分の手を見た。若い手だ。30歳の肉体を保っている。でも、この手は500年分の重みを知っている。 そのとき、扉がノックされた。「どうぞ」 入ってきたのは、意外な人物だった。ユキコだった。「まだ、死んでいなかったんですね」 アキラは驚いて言った。「ええ。予定を変更しましたの」 ユキコは微笑んだ。「あなたのお手伝いをしようと思って」「手伝い?」「あなた、自分の記録を取ろうとしているでしょう? でも、一人では難しいわ」 ユキコは椅子に座った。「終焉士には、終焉士が必要なんです。誰かが問いを投げかけないと、物語は始まらない」 アキラは長い沈黙の後、頷いた。「お願いします」「さあ、話してください。アキラ・サトウの物語を」 アキラは深く息を吸った。そして、ゆっくりと語り始めた。「私は、妻の死をきっかけに、終焉士になりました」 言葉が、ゆっくりと溢れ出してくる。「彼女の死を受け入れるために。いえ、違う。彼女の死から、逃げるために」
それから3日間、アキラは誰にも会わず、事務所に閉じこもっていた。 彼は、すべての記録を読み返していた。自分が見送った10,247人の人生を。一つ一つ、丁寧に。 そして、彼はあるパターンに気づき始めた。 人々が最も大切にしている記憶は、必ず「有限だった時代」のものだった。 不老技術を受ける前の、限られた時間の中での、かけがえのない瞬間。 恋人との初めてのデート。 子供の誕生。 親の最期。 友との別れ。 雨の日の傘の下。 それらは、すべて有限性の中で輝いていた。 逆に、不老技術を受けた後の数百年、数千年の記憶は、ぼんやりと曖昧だった。確かに多くのことを経験したはずなのに、何一つ心に残っていない。 ある男は、火星に300年住んでいたが、その記憶はほとんどなかった。 ある女は、50人の恋人を持ったが、誰一人として鮮明に思い出せなかった。 ある夫婦は、800年一緒に暮らしたが、最後の500年については「何もなかった」と語った。 なぜか。 答えは明白だった。 永遠は、意味を奪うのだ。 アキラは哲学の古典を読み返した。ハイデガー、サルトル、カミュ、キルケゴール。彼らは皆、死と有限性について書いていた。 ハイデガーは言った。「人間は『死に臨む存在』である」と。死があるからこそ、人間は本来的に生きることができる。自分の有限性を自覚することで、人は初めて真に実存する、と。 サルトルは言った。「実存は本質に先立つ」と。人間には予め定められた本質などない。ただ、限られた時間の中で選択を重ね、自分を創造していく。その選択の重みが、死によって保証される、と。